一度目は
冷たい路上に
殴りつけられ
横たわるその顔に
唾が吐きかけられた夜
二度目は
まだインクの
匂いたつ紙の上に
殺された
彼の名が
殺した男の
隣に並べられた夜
もう冷たくも
温かくもない
アスファルトと
紙に奪われた
男の体温は
いまはどこに
消えたのか
それを見つめる
わたしたちの目は
遠い異国で
二度
殺された
美しい神の名を持つ
男のことを
いつまで憶えて
いられるだろう
その名がただちに
わたしたちに
忘れられるためだけに
知らされたのでなければ
男を傷つけた
わたしたちが
男の妻や
父親の代わりに
祈るふりを
するのではなく
傷つけた
わたしたちだけが
その死に
問いかけねばならない
忘却と暴力の間に
いまも横たわる
失われた
彼の言葉と
その声に
耳を澄ますための
時間を
彼がこの国で
そう呼ばれていた
はずの声色で
本当の名を
見つけるために
いつか
遠くヒマラヤの
麓まで
その声が届くように
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(
2011/12/26)
無題
久しぶりの更新になる。
あれからずいぶんと月日が経って、自分の周りの環境も、世の中の状況
もすっかり変わってしまった。
書くことがなかったわけではないのだが、もとよりの不精もあってか、
どうせだれも見ていないだろうと放置していたら、そもそもここの存在
すら忘れてしまっていた。
これまでも見られることを前提に書いていたわけではなかったのだが、
いざ誰にも見られていなければいないで自分でもすっかり忘れてしまう
というのは、書けとも言われていない自分のいい加減な性根を、わざわ
ざ公衆の面前で晒しているようで、案外この空白の時期ですら、自分で
は書けない何事かを「書こうとしていた」気もしてきて、面白くもある。
今なら昔の自分の書いていたこともすっかり忘れて、新しく始めること
もできるだろうが、世の中にはきっと、そうして忘れられていくブログ
やHPが星の数ほどあるのだと思うと、自意識も使い捨てできる時代に
なったのだなあと、妙に感慨深く思われて、それならとここに書き繋げ
てみることにした。
そんなわけで、わざわざこうして忘れたアドレスとパスワードを思い出
してまで更新したのにはそれだけの理由があって、どうしても他のとこ
ろに書くことができずにいたことがあったために他ならない。
【野田首相の新橋前演説】
この映像が再生回数13万回を超え、ネット右翼の在日・民主批判に利用されて
いる件で、思うところがあった。
恥を忍んで打ち明けると、この映像の5:42くらいから、抗議に参加したぼくが、
警察に連行されている姿が映されている。
あの日、脱原発派の有志から前日に野田首相演説の話を聞き、ぼくは、脱原発
以外のメッセージをこめずに、非暴力の姿勢を前提にして、一人で抗議へ向か
うことに決めた。
映像には映されていないが、ぼくは近くにマークされたSPや公安に、あらか
じめ「首相に言いたいことがありますので、これからプラカードを掲げます」
と宣言していた。
遮断ゲートの外側でならいいですよ、と言われたため、外から掲げようとした
瞬間、後ろにいた公安によって「確保」され、後は映像に映されている「外」
に追いやられたというわけだ。
誤解してほしくないのは、ぼくがここで伝えたいことは、国家権力の横暴だと
か、不当逮捕云々、という話ではない。
むしろ、首相演説という特殊な状況下であった以上、こうした対応は不当では
あれど、やむを得ない、というか、ある程度覚悟して望んでいたので、今さら
警察や公安にどうこうという気は一切ない。
実際に、演説中止の一声で、多摩川ボートという冒頭の人物を除いて、すぐに
解放された事実もある。
ただ、ぼくが違和感を感じたのは、後日になって、あのときの自分の行動が記
録された映像が、別の恣意的な意図をもって無断で利用され、まったく思うと
ころのないプロパガンダに使われていたことだ。
その意味において、件の動画で中心となってコメントを繰り返している「ネッ
ト右翼」のメンタリティと、そのテンプレート的無意識に、強い不快感を抱い
たことをここに書いておく。
脱原発の一点のみで参加したぼくの意思がどうあっても、その主張は、映像と
いう記録メディアに巣食う圧倒的な別の思惑によって別の意図をもって誤読
されてしまった。
そのこと自体は、プラカードを掲げる以外にすべをもたなかったぼく自身の
問題でもあるし、今後の抗議行動などでも、彼らの存在を意識して動く必要
性も感じさせられた。
それでも他の脱原発の意思を表明する多くの人たちが、自分のいない所で一
斉にプラカードと声で抗議していたことを後になって知り、その事実をTV
メディアが取り上げたことも含め、やはり機会のあるかぎりは、多少のリス
クはあれど、直接抗議の訴えを絶やしてはいけないと再認識した。
結果はどうあれ、これからも「偏向報道のメディア批判」や「民主党の政権
批判」とは別に、自分は「原発の危険性の再認識」という一点で抗議に参加
すると思う。
今回の抗議で、メッセージの内容やその主張だけが、すべてを物語るわけで
はないのだと思った。
最終的に人の心を打つのは訴えかける私たちそれぞれの態度であり、まなざ
しであり、言葉でしかない。ゆえに「個」としての「顔」を持たず、常に社
会の潜在的な群衆でしかありえないネット右翼たちは、世の中を変えない。
彼らの精神構造の根底に共通しているのは「どうせ自分一人の力でこの世の
中は変わらない」という諦念なのかもしれない。だからこそ、絶対に変わる
ことのない世の中を集団で批判することで、自分たちが居心地のよい「居場
所」や「仲間」を作ろうとするのだろう。
このくそったれな現実に理想を抱くなど、彼らにとっては群れるための「建
前」でしかないからこそ、利用されるテンプレートはおしなべて「敵」を必
要とするメッセージばかりなのだろう。仲間意識を生む上で最も効率がよい
のは、同じ目的を掲げることではなく、同じ敵を憎むことだから。
同時にこうした考えは逆説的かもしれないが、彼らの存在を、世の中の現実
に「無関心」ではいられなかった存在として受け止めることはできないだろ
うか?彼らは、圧倒的多数としての無関心を育んできた戦後日本が維持して
きた社会構造に対して、生ぬるい居心地の悪さを少し敏感に感じ取ってしま
った人たちなのかもしれない。
その外に造られた虚構の故郷こそが、2ちゃんであり、ようつべであり、二
コ動なのだろう。正直に言って、自分はこれまで彼らの存在に対して、知り
こそすれど「無関心」だった。この世の中には、もっと知るべきことがある
ような気がしていた。しかし今は、彼らに対して「逃げずにもっと現実を見
ろ!」と強く思う。
おかしさに気づいていながらそれを見ぬふりをして目をそらすことは、それ
を知らずにいることと同じほどに罪深い。もし彼らの中に、ネット右翼とし
ての自分の行動を「おかしい」と感じることが少しでもあったなら、その
居心地よい嘘から抜け出し、真実のある現実へと向き合ってほしいと願う。
たとえそれが一人きりでも。
あれからずいぶんと月日が経って、自分の周りの環境も、世の中の状況
もすっかり変わってしまった。
書くことがなかったわけではないのだが、もとよりの不精もあってか、
どうせだれも見ていないだろうと放置していたら、そもそもここの存在
すら忘れてしまっていた。
これまでも見られることを前提に書いていたわけではなかったのだが、
いざ誰にも見られていなければいないで自分でもすっかり忘れてしまう
というのは、書けとも言われていない自分のいい加減な性根を、わざわ
ざ公衆の面前で晒しているようで、案外この空白の時期ですら、自分で
は書けない何事かを「書こうとしていた」気もしてきて、面白くもある。
今なら昔の自分の書いていたこともすっかり忘れて、新しく始めること
もできるだろうが、世の中にはきっと、そうして忘れられていくブログ
やHPが星の数ほどあるのだと思うと、自意識も使い捨てできる時代に
なったのだなあと、妙に感慨深く思われて、それならとここに書き繋げ
てみることにした。
そんなわけで、わざわざこうして忘れたアドレスとパスワードを思い出
してまで更新したのにはそれだけの理由があって、どうしても他のとこ
ろに書くことができずにいたことがあったために他ならない。
【野田首相の新橋前演説】
この映像が再生回数13万回を超え、ネット右翼の在日・民主批判に利用されて
いる件で、思うところがあった。
恥を忍んで打ち明けると、この映像の5:42くらいから、抗議に参加したぼくが、
警察に連行されている姿が映されている。
あの日、脱原発派の有志から前日に野田首相演説の話を聞き、ぼくは、脱原発
以外のメッセージをこめずに、非暴力の姿勢を前提にして、一人で抗議へ向か
うことに決めた。
映像には映されていないが、ぼくは近くにマークされたSPや公安に、あらか
じめ「首相に言いたいことがありますので、これからプラカードを掲げます」
と宣言していた。
遮断ゲートの外側でならいいですよ、と言われたため、外から掲げようとした
瞬間、後ろにいた公安によって「確保」され、後は映像に映されている「外」
に追いやられたというわけだ。
誤解してほしくないのは、ぼくがここで伝えたいことは、国家権力の横暴だと
か、不当逮捕云々、という話ではない。
むしろ、首相演説という特殊な状況下であった以上、こうした対応は不当では
あれど、やむを得ない、というか、ある程度覚悟して望んでいたので、今さら
警察や公安にどうこうという気は一切ない。
実際に、演説中止の一声で、多摩川ボートという冒頭の人物を除いて、すぐに
解放された事実もある。
ただ、ぼくが違和感を感じたのは、後日になって、あのときの自分の行動が記
録された映像が、別の恣意的な意図をもって無断で利用され、まったく思うと
ころのないプロパガンダに使われていたことだ。
その意味において、件の動画で中心となってコメントを繰り返している「ネッ
ト右翼」のメンタリティと、そのテンプレート的無意識に、強い不快感を抱い
たことをここに書いておく。
脱原発の一点のみで参加したぼくの意思がどうあっても、その主張は、映像と
いう記録メディアに巣食う圧倒的な別の思惑によって別の意図をもって誤読
されてしまった。
そのこと自体は、プラカードを掲げる以外にすべをもたなかったぼく自身の
問題でもあるし、今後の抗議行動などでも、彼らの存在を意識して動く必要
性も感じさせられた。
それでも他の脱原発の意思を表明する多くの人たちが、自分のいない所で一
斉にプラカードと声で抗議していたことを後になって知り、その事実をTV
メディアが取り上げたことも含め、やはり機会のあるかぎりは、多少のリス
クはあれど、直接抗議の訴えを絶やしてはいけないと再認識した。
結果はどうあれ、これからも「偏向報道のメディア批判」や「民主党の政権
批判」とは別に、自分は「原発の危険性の再認識」という一点で抗議に参加
すると思う。
今回の抗議で、メッセージの内容やその主張だけが、すべてを物語るわけで
はないのだと思った。
最終的に人の心を打つのは訴えかける私たちそれぞれの態度であり、まなざ
しであり、言葉でしかない。ゆえに「個」としての「顔」を持たず、常に社
会の潜在的な群衆でしかありえないネット右翼たちは、世の中を変えない。
彼らの精神構造の根底に共通しているのは「どうせ自分一人の力でこの世の
中は変わらない」という諦念なのかもしれない。だからこそ、絶対に変わる
ことのない世の中を集団で批判することで、自分たちが居心地のよい「居場
所」や「仲間」を作ろうとするのだろう。
このくそったれな現実に理想を抱くなど、彼らにとっては群れるための「建
前」でしかないからこそ、利用されるテンプレートはおしなべて「敵」を必
要とするメッセージばかりなのだろう。仲間意識を生む上で最も効率がよい
のは、同じ目的を掲げることではなく、同じ敵を憎むことだから。
同時にこうした考えは逆説的かもしれないが、彼らの存在を、世の中の現実
に「無関心」ではいられなかった存在として受け止めることはできないだろ
うか?彼らは、圧倒的多数としての無関心を育んできた戦後日本が維持して
きた社会構造に対して、生ぬるい居心地の悪さを少し敏感に感じ取ってしま
った人たちなのかもしれない。
その外に造られた虚構の故郷こそが、2ちゃんであり、ようつべであり、二
コ動なのだろう。正直に言って、自分はこれまで彼らの存在に対して、知り
こそすれど「無関心」だった。この世の中には、もっと知るべきことがある
ような気がしていた。しかし今は、彼らに対して「逃げずにもっと現実を見
ろ!」と強く思う。
おかしさに気づいていながらそれを見ぬふりをして目をそらすことは、それ
を知らずにいることと同じほどに罪深い。もし彼らの中に、ネット右翼とし
ての自分の行動を「おかしい」と感じることが少しでもあったなら、その
居心地よい嘘から抜け出し、真実のある現実へと向き合ってほしいと願う。
たとえそれが一人きりでも。
(
2009/05/22)
転身
近く引っ越しのため、汚れまくった部屋の片づけに追われています。
いつもぎりぎりのところまで追いつめられないと何を捨ててよいのかすらわからない。もちろんはじめてここに越してきたとき、部屋はとてもきれいだった。いまでは段ボールや紙くずやらのごみと大切なものの区別もつかない。ふだんからこれだけは手放せぬと思っていた本やレコードなんかも、ほんとうのところ、どうなんだろうね?なにもなければないで、案外大丈夫なものかもしれない。でも、はじめから何もなかったら、また何かをほしがっただろう。そんなふうに思うと、ものはいつか手放すためにここにあるのかしらという気がしてくる。
結局、何がほんとうに必要か、選ぶことに苦労するよりも、いつも選ばずにすむやり方を選ぶから、引っ越しのたびに残るものはだいたい決まってくる。日が迫ってぎりぎりになれば、直感的にとにかくひたすら捨てまくり、うっかり捨ててしまったものに後悔などする暇もなく、捨てたのならば、もうないのだから、後悔するのはそれがないことに気がつくときだけ、ほんとうに必要がなかったらなくしたことにも気づかないだろう。
いつもぎりぎりのところまで追いつめられないと何を捨ててよいのかすらわからない。もちろんはじめてここに越してきたとき、部屋はとてもきれいだった。いまでは段ボールや紙くずやらのごみと大切なものの区別もつかない。ふだんからこれだけは手放せぬと思っていた本やレコードなんかも、ほんとうのところ、どうなんだろうね?なにもなければないで、案外大丈夫なものかもしれない。でも、はじめから何もなかったら、また何かをほしがっただろう。そんなふうに思うと、ものはいつか手放すためにここにあるのかしらという気がしてくる。
結局、何がほんとうに必要か、選ぶことに苦労するよりも、いつも選ばずにすむやり方を選ぶから、引っ越しのたびに残るものはだいたい決まってくる。日が迫ってぎりぎりになれば、直感的にとにかくひたすら捨てまくり、うっかり捨ててしまったものに後悔などする暇もなく、捨てたのならば、もうないのだから、後悔するのはそれがないことに気がつくときだけ、ほんとうに必要がなかったらなくしたことにも気づかないだろう。
「たといそれらのうちで最も望まれていたものが実現されるとしても、残りのものは犠牲にされねばならず、したがってわれわれは多くのものを失ってしまうこ とになるだろう。それでも、無限の可能性でふくれ上がった未来の観念は、未来そのものよりもいっそう豊かであり、そしてこれこそ、所有よりも希望に、現実 よりも夢に、よりいっそうの魅力が見いだされる理由である。」
ベルクソン 『時間と自由』ー「深い感情」より
原 将人『マテリアル&メモリーズ』
http:// www.co 2ex.or g/2009 jyouei /tokub etsu.h tml#05
過去の上映
http:// old02. n-eiga jyuku. com/ci nebang /cinev an0007 01.htm
(新潟で行われた映画祭)
先日は梅田に原 将人『マテリアル&メモリーズ』を観にいくことができた。
長いこと噂でしか聞くことができずに半ば伝説と化していた彼の作品上映を、まさか大阪で観ることができるようになるとは夢にも思っていなかった。
今回の上映を企画し、見事に成功させたCO2の方々にここで感謝したい。
ありがとうございました。
自分にとって特別な意味をもつ監督の、ほんとうに、まったく長いこと待ちわびていた上映会だっただけに、まるでその「待っている」時間すら彼の映 画の一部分であったかのような錯覚をおこすほど、まちがいなくここ数年でもっとも衝撃をうけた、おどろくほど自由でエモーショナルな映画的時間の体験だっ た。
けれどもほとんどこの「時間」を語るための言葉が、いまもって自分のなかに見当たらない。まるで、彼の頭の内部にひらかれた映画館の客席で、彼自 身が何度も見続けているだろう夢のような記憶のフラグメンツをともに見守っているような感覚だ。映し出されるイメージに合わせてピアノを弾きながら、とき おり思いついたように歌い、しゃべる原監督の口調はときにたどたどしく、ときに涙で声がつまって、まるで、たったいま話しながらそこに映された日のことを 思い出したかのようだ。まるで、この空間全体があの日の記憶にすっぽりと入り込んでしまったかのようだ。やがてそこに映し出されたものが、自分自身の記憶 であったかのような気がしはじめた。いや、正確にはそうではない。とてもよく似た風景や、あの光のことを、ぼくたちもきっとこれまでに見てきたのだ。あれ が、もしかしたらいつかのぼくら自身の記憶でないと、だれが言いきれるだろう?ここに光はひらかれている。光を見つめるぼくたちそれぞれにひらかれてい る。それにしても、なんという懐かしさなのだろう、なんというあたたかなまなざしなのだろう。
こんなことは、これまで観てきたどんな映画にも感じたことのない印象であり、まったくオリジナルな時間としかいいようがない。気がつくと涙でかす んだスクリーンの光はすこしずつ弱まり、消えかかっていて、「ああ、もう映画は終わってしまうんだな」という思いがこみ上げてきて胸がいっぱいになった。
誤解をおそれずに言えば、この映画のまえですべての映画は、自らのその実験性を問い直さずにはいられないだろう。けれども、それはまぎれもなく映画という表現の可能性をめぐる、ひとつの希望なのだと思う。
開演とともに、ベルクソンの『物質と記憶』から今回の作品のタイトルをひらめいたことを明かしながらドゥルーズの『シネマ1・2』を引用した原監 督は、しかしそれを評論家の難解な表現論によるものとしてではなく、むしろすでにして自らが撮ってしまった一連の作品における理解を客観的に深め考察する ためのものだったように思われた。
彼は「現在の映画は、逆らうことのできない単一の時間の流れに支配されていて、ぼくらのイメージはそのなかで本来の自由さを失っている」という。 「三つのスクリーン」はそのためにあり、そこに映し出された映像は「ひらかれたイメージ」として観るものに受け止められるはずだと話してくれた。
今回の上映をきっかけに、『マテリアル&メモリーズ』をひっさげて、原将人は全国を巡回するつもりだという。映画の内容のついて、詳しいことはここでは何も語らない。語れることなど、ほんとうは何もない。
ただ、それぞれの足でそこへ行き、その目でそれを観てほしい。
*
映画とともに歌われている音楽がCDで出版された。
これだけでもまったく別の価値をもつだろう奇盤である。
http:// bp.coc olog-n ifty.c om/bp/ 2006/0 5/_tow erjp_1 785.ht ml
映画+小説 『初国知所之天皇』 はつくにしらすめらみこと
http:// page16 .aucti ons.ya hoo.co .jp/jp /aucti on/u25 285713
オークションで発見。
『初国』のシナリオとしても読むことができる。絶版で数も少ないが、まだ見ぬイメージへのあこがれに満ち満ちていて、勇気づけられる。
以下は自分のためのメモなので読まなくてもいいです。
いかなる概念にも先行して、物質としての「フィルム」がまずここにあるということ。そしてそれが、過去の自分が未来に向けて残した現在の記憶であり、同時にあらゆる未来の思考を待ち受けて、絶えず待機し続けている不断に持続された時間をその内部に保有していること。
意識上に漂流する直接的な記憶ではなく、外部に転写された物質としてのフィルムは、様々な外的時間の変化にさらされながら、痛み、傷つき、ある場 合には損失されるだろう。けれどもそこには、決して損なわれることのない何かが隠されていて、逆説的にそれこそがぼくたちの生存にとって、もっとも大切な
ものが何であるのかを明らかにする。そうすること以外にはいかようにも考えることのできない対象としての、ぼくたち自身の記憶の正体をめぐる秘 密が、そこには隠されている。過去。決して変わるはずのない、しかし、変わりうる可能性を無限にはらんだ希望としての未来を創造する、過去。
ベルクソン 『時間と自由』ー「深い感情」より
原 将人『マテリアル&メモリーズ』
http://
過去の上映
http://
(新潟で行われた映画祭)
先日は梅田に原 将人『マテリアル&メモリーズ』を観にいくことができた。
長いこと噂でしか聞くことができずに半ば伝説と化していた彼の作品上映を、まさか大阪で観ることができるようになるとは夢にも思っていなかった。
今回の上映を企画し、見事に成功させたCO2の方々にここで感謝したい。
ありがとうございました。
自分にとって特別な意味をもつ監督の、ほんとうに、まったく長いこと待ちわびていた上映会だっただけに、まるでその「待っている」時間すら彼の映 画の一部分であったかのような錯覚をおこすほど、まちがいなくここ数年でもっとも衝撃をうけた、おどろくほど自由でエモーショナルな映画的時間の体験だっ た。
けれどもほとんどこの「時間」を語るための言葉が、いまもって自分のなかに見当たらない。まるで、彼の頭の内部にひらかれた映画館の客席で、彼自 身が何度も見続けているだろう夢のような記憶のフラグメンツをともに見守っているような感覚だ。映し出されるイメージに合わせてピアノを弾きながら、とき おり思いついたように歌い、しゃべる原監督の口調はときにたどたどしく、ときに涙で声がつまって、まるで、たったいま話しながらそこに映された日のことを 思い出したかのようだ。まるで、この空間全体があの日の記憶にすっぽりと入り込んでしまったかのようだ。やがてそこに映し出されたものが、自分自身の記憶 であったかのような気がしはじめた。いや、正確にはそうではない。とてもよく似た風景や、あの光のことを、ぼくたちもきっとこれまでに見てきたのだ。あれ が、もしかしたらいつかのぼくら自身の記憶でないと、だれが言いきれるだろう?ここに光はひらかれている。光を見つめるぼくたちそれぞれにひらかれてい る。それにしても、なんという懐かしさなのだろう、なんというあたたかなまなざしなのだろう。
こんなことは、これまで観てきたどんな映画にも感じたことのない印象であり、まったくオリジナルな時間としかいいようがない。気がつくと涙でかす んだスクリーンの光はすこしずつ弱まり、消えかかっていて、「ああ、もう映画は終わってしまうんだな」という思いがこみ上げてきて胸がいっぱいになった。
誤解をおそれずに言えば、この映画のまえですべての映画は、自らのその実験性を問い直さずにはいられないだろう。けれども、それはまぎれもなく映画という表現の可能性をめぐる、ひとつの希望なのだと思う。
開演とともに、ベルクソンの『物質と記憶』から今回の作品のタイトルをひらめいたことを明かしながらドゥルーズの『シネマ1・2』を引用した原監 督は、しかしそれを評論家の難解な表現論によるものとしてではなく、むしろすでにして自らが撮ってしまった一連の作品における理解を客観的に深め考察する ためのものだったように思われた。
彼は「現在の映画は、逆らうことのできない単一の時間の流れに支配されていて、ぼくらのイメージはそのなかで本来の自由さを失っている」という。 「三つのスクリーン」はそのためにあり、そこに映し出された映像は「ひらかれたイメージ」として観るものに受け止められるはずだと話してくれた。
今回の上映をきっかけに、『マテリアル&メモリーズ』をひっさげて、原将人は全国を巡回するつもりだという。映画の内容のついて、詳しいことはここでは何も語らない。語れることなど、ほんとうは何もない。
ただ、それぞれの足でそこへ行き、その目でそれを観てほしい。
*
映画とともに歌われている音楽がCDで出版された。
これだけでもまったく別の価値をもつだろう奇盤である。
http://
映画+小説 『初国知所之天皇』 はつくにしらすめらみこと
http://
オークションで発見。
『初国』のシナリオとしても読むことができる。絶版で数も少ないが、まだ見ぬイメージへのあこがれに満ち満ちていて、勇気づけられる。
以下は自分のためのメモなので読まなくてもいいです。
いかなる概念にも先行して、物質としての「フィルム」がまずここにあるということ。そしてそれが、過去の自分が未来に向けて残した現在の記憶であり、同時にあらゆる未来の思考を待ち受けて、絶えず待機し続けている不断に持続された時間をその内部に保有していること。
意識上に漂流する直接的な記憶ではなく、外部に転写された物質としてのフィルムは、様々な外的時間の変化にさらされながら、痛み、傷つき、ある場 合には損失されるだろう。けれどもそこには、決して損なわれることのない何かが隠されていて、逆説的にそれこそがぼくたちの生存にとって、もっとも大切な
ものが何であるのかを明らかにする。そうすること以外にはいかようにも考えることのできない対象としての、ぼくたち自身の記憶の正体をめぐる秘 密が、そこには隠されている。過去。決して変わるはずのない、しかし、変わりうる可能性を無限にはらんだ希望としての未来を創造する、過去。
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誕生日:
1982/11/01
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