一度目は
冷たい路上に
殴りつけられ
横たわるその顔に
唾が吐きかけられた夜
二度目は
まだインクの
匂いたつ紙の上に
殺された
彼の名が
殺した男の
隣に並べられた夜
もう冷たくも
温かくもない
アスファルトと
紙に奪われた
男の体温は
いまはどこに
消えたのか
それを見つめる
わたしたちの目は
遠い異国で
二度
殺された
美しい神の名を持つ
男のことを
いつまで憶えて
いられるだろう
その名がただちに
わたしたちに
忘れられるためだけに
知らされたのでなければ
男を傷つけた
わたしたちが
男の妻や
父親の代わりに
祈るふりを
するのではなく
傷つけた
わたしたちだけが
その死に
問いかけねばならない
忘却と暴力の間に
いまも横たわる
失われた
彼の言葉と
その声に
耳を澄ますための
時間を
彼がこの国で
そう呼ばれていた
はずの声色で
本当の名を
見つけるために
いつか
遠くヒマラヤの
麓まで
その声が届くように
(
2011/12/26)
無題
久しぶりの更新になる。
あれからずいぶんと月日が経って、自分の周りの環境も、世の中の状況
もすっかり変わってしまった。
書くことがなかったわけではないのだが、もとよりの不精もあってか、
どうせだれも見ていないだろうと放置していたら、そもそもここの存在
すら忘れてしまっていた。
これまでも見られることを前提に書いていたわけではなかったのだが、
いざ誰にも見られていなければいないで自分でもすっかり忘れてしまう
というのは、書けとも言われていない自分のいい加減な性根を、わざわ
ざ公衆の面前で晒しているようで、案外この空白の時期ですら、自分で
は書けない何事かを「書こうとしていた」気もしてきて、面白くもある。
今なら昔の自分の書いていたこともすっかり忘れて、新しく始めること
もできるだろうが、世の中にはきっと、そうして忘れられていくブログ
やHPが星の数ほどあるのだと思うと、自意識も使い捨てできる時代に
なったのだなあと、妙に感慨深く思われて、それならとここに書き繋げ
てみることにした。
そんなわけで、わざわざこうして忘れたアドレスとパスワードを思い出
してまで更新したのにはそれだけの理由があって、どうしても他のとこ
ろに書くことができずにいたことがあったために他ならない。
【野田首相の新橋前演説】
この映像が再生回数13万回を超え、ネット右翼の在日・民主批判に利用されて
いる件で、思うところがあった。
恥を忍んで打ち明けると、この映像の5:42くらいから、抗議に参加したぼくが、
警察に連行されている姿が映されている。
あの日、脱原発派の有志から前日に野田首相演説の話を聞き、ぼくは、脱原発
以外のメッセージをこめずに、非暴力の姿勢を前提にして、一人で抗議へ向か
うことに決めた。
映像には映されていないが、ぼくは近くにマークされたSPや公安に、あらか
じめ「首相に言いたいことがありますので、これからプラカードを掲げます」
と宣言していた。
遮断ゲートの外側でならいいですよ、と言われたため、外から掲げようとした
瞬間、後ろにいた公安によって「確保」され、後は映像に映されている「外」
に追いやられたというわけだ。
誤解してほしくないのは、ぼくがここで伝えたいことは、国家権力の横暴だと
か、不当逮捕云々、という話ではない。
むしろ、首相演説という特殊な状況下であった以上、こうした対応は不当では
あれど、やむを得ない、というか、ある程度覚悟して望んでいたので、今さら
警察や公安にどうこうという気は一切ない。
実際に、演説中止の一声で、多摩川ボートという冒頭の人物を除いて、すぐに
解放された事実もある。
ただ、ぼくが違和感を感じたのは、後日になって、あのときの自分の行動が記
録された映像が、別の恣意的な意図をもって無断で利用され、まったく思うと
ころのないプロパガンダに使われていたことだ。
その意味において、件の動画で中心となってコメントを繰り返している「ネッ
ト右翼」のメンタリティと、そのテンプレート的無意識に、強い不快感を抱い
たことをここに書いておく。
脱原発の一点のみで参加したぼくの意思がどうあっても、その主張は、映像と
いう記録メディアに巣食う圧倒的な別の思惑によって別の意図をもって誤読
されてしまった。
そのこと自体は、プラカードを掲げる以外にすべをもたなかったぼく自身の
問題でもあるし、今後の抗議行動などでも、彼らの存在を意識して動く必要
性も感じさせられた。
それでも他の脱原発の意思を表明する多くの人たちが、自分のいない所で一
斉にプラカードと声で抗議していたことを後になって知り、その事実をTV
メディアが取り上げたことも含め、やはり機会のあるかぎりは、多少のリス
クはあれど、直接抗議の訴えを絶やしてはいけないと再認識した。
結果はどうあれ、これからも「偏向報道のメディア批判」や「民主党の政権
批判」とは別に、自分は「原発の危険性の再認識」という一点で抗議に参加
すると思う。
今回の抗議で、メッセージの内容やその主張だけが、すべてを物語るわけで
はないのだと思った。
最終的に人の心を打つのは訴えかける私たちそれぞれの態度であり、まなざ
しであり、言葉でしかない。ゆえに「個」としての「顔」を持たず、常に社
会の潜在的な群衆でしかありえないネット右翼たちは、世の中を変えない。
彼らの精神構造の根底に共通しているのは「どうせ自分一人の力でこの世の
中は変わらない」という諦念なのかもしれない。だからこそ、絶対に変わる
ことのない世の中を集団で批判することで、自分たちが居心地のよい「居場
所」や「仲間」を作ろうとするのだろう。
このくそったれな現実に理想を抱くなど、彼らにとっては群れるための「建
前」でしかないからこそ、利用されるテンプレートはおしなべて「敵」を必
要とするメッセージばかりなのだろう。仲間意識を生む上で最も効率がよい
のは、同じ目的を掲げることではなく、同じ敵を憎むことだから。
同時にこうした考えは逆説的かもしれないが、彼らの存在を、世の中の現実
に「無関心」ではいられなかった存在として受け止めることはできないだろ
うか?彼らは、圧倒的多数としての無関心を育んできた戦後日本が維持して
きた社会構造に対して、生ぬるい居心地の悪さを少し敏感に感じ取ってしま
った人たちなのかもしれない。
その外に造られた虚構の故郷こそが、2ちゃんであり、ようつべであり、二
コ動なのだろう。正直に言って、自分はこれまで彼らの存在に対して、知り
こそすれど「無関心」だった。この世の中には、もっと知るべきことがある
ような気がしていた。しかし今は、彼らに対して「逃げずにもっと現実を見
ろ!」と強く思う。
おかしさに気づいていながらそれを見ぬふりをして目をそらすことは、それ
を知らずにいることと同じほどに罪深い。もし彼らの中に、ネット右翼とし
ての自分の行動を「おかしい」と感じることが少しでもあったなら、その
居心地よい嘘から抜け出し、真実のある現実へと向き合ってほしいと願う。
たとえそれが一人きりでも。
あれからずいぶんと月日が経って、自分の周りの環境も、世の中の状況
もすっかり変わってしまった。
書くことがなかったわけではないのだが、もとよりの不精もあってか、
どうせだれも見ていないだろうと放置していたら、そもそもここの存在
すら忘れてしまっていた。
これまでも見られることを前提に書いていたわけではなかったのだが、
いざ誰にも見られていなければいないで自分でもすっかり忘れてしまう
というのは、書けとも言われていない自分のいい加減な性根を、わざわ
ざ公衆の面前で晒しているようで、案外この空白の時期ですら、自分で
は書けない何事かを「書こうとしていた」気もしてきて、面白くもある。
今なら昔の自分の書いていたこともすっかり忘れて、新しく始めること
もできるだろうが、世の中にはきっと、そうして忘れられていくブログ
やHPが星の数ほどあるのだと思うと、自意識も使い捨てできる時代に
なったのだなあと、妙に感慨深く思われて、それならとここに書き繋げ
てみることにした。
そんなわけで、わざわざこうして忘れたアドレスとパスワードを思い出
してまで更新したのにはそれだけの理由があって、どうしても他のとこ
ろに書くことができずにいたことがあったために他ならない。
【野田首相の新橋前演説】
この映像が再生回数13万回を超え、ネット右翼の在日・民主批判に利用されて
いる件で、思うところがあった。
恥を忍んで打ち明けると、この映像の5:42くらいから、抗議に参加したぼくが、
警察に連行されている姿が映されている。
あの日、脱原発派の有志から前日に野田首相演説の話を聞き、ぼくは、脱原発
以外のメッセージをこめずに、非暴力の姿勢を前提にして、一人で抗議へ向か
うことに決めた。
映像には映されていないが、ぼくは近くにマークされたSPや公安に、あらか
じめ「首相に言いたいことがありますので、これからプラカードを掲げます」
と宣言していた。
遮断ゲートの外側でならいいですよ、と言われたため、外から掲げようとした
瞬間、後ろにいた公安によって「確保」され、後は映像に映されている「外」
に追いやられたというわけだ。
誤解してほしくないのは、ぼくがここで伝えたいことは、国家権力の横暴だと
か、不当逮捕云々、という話ではない。
むしろ、首相演説という特殊な状況下であった以上、こうした対応は不当では
あれど、やむを得ない、というか、ある程度覚悟して望んでいたので、今さら
警察や公安にどうこうという気は一切ない。
実際に、演説中止の一声で、多摩川ボートという冒頭の人物を除いて、すぐに
解放された事実もある。
ただ、ぼくが違和感を感じたのは、後日になって、あのときの自分の行動が記
録された映像が、別の恣意的な意図をもって無断で利用され、まったく思うと
ころのないプロパガンダに使われていたことだ。
その意味において、件の動画で中心となってコメントを繰り返している「ネッ
ト右翼」のメンタリティと、そのテンプレート的無意識に、強い不快感を抱い
たことをここに書いておく。
脱原発の一点のみで参加したぼくの意思がどうあっても、その主張は、映像と
いう記録メディアに巣食う圧倒的な別の思惑によって別の意図をもって誤読
されてしまった。
そのこと自体は、プラカードを掲げる以外にすべをもたなかったぼく自身の
問題でもあるし、今後の抗議行動などでも、彼らの存在を意識して動く必要
性も感じさせられた。
それでも他の脱原発の意思を表明する多くの人たちが、自分のいない所で一
斉にプラカードと声で抗議していたことを後になって知り、その事実をTV
メディアが取り上げたことも含め、やはり機会のあるかぎりは、多少のリス
クはあれど、直接抗議の訴えを絶やしてはいけないと再認識した。
結果はどうあれ、これからも「偏向報道のメディア批判」や「民主党の政権
批判」とは別に、自分は「原発の危険性の再認識」という一点で抗議に参加
すると思う。
今回の抗議で、メッセージの内容やその主張だけが、すべてを物語るわけで
はないのだと思った。
最終的に人の心を打つのは訴えかける私たちそれぞれの態度であり、まなざ
しであり、言葉でしかない。ゆえに「個」としての「顔」を持たず、常に社
会の潜在的な群衆でしかありえないネット右翼たちは、世の中を変えない。
彼らの精神構造の根底に共通しているのは「どうせ自分一人の力でこの世の
中は変わらない」という諦念なのかもしれない。だからこそ、絶対に変わる
ことのない世の中を集団で批判することで、自分たちが居心地のよい「居場
所」や「仲間」を作ろうとするのだろう。
このくそったれな現実に理想を抱くなど、彼らにとっては群れるための「建
前」でしかないからこそ、利用されるテンプレートはおしなべて「敵」を必
要とするメッセージばかりなのだろう。仲間意識を生む上で最も効率がよい
のは、同じ目的を掲げることではなく、同じ敵を憎むことだから。
同時にこうした考えは逆説的かもしれないが、彼らの存在を、世の中の現実
に「無関心」ではいられなかった存在として受け止めることはできないだろ
うか?彼らは、圧倒的多数としての無関心を育んできた戦後日本が維持して
きた社会構造に対して、生ぬるい居心地の悪さを少し敏感に感じ取ってしま
った人たちなのかもしれない。
その外に造られた虚構の故郷こそが、2ちゃんであり、ようつべであり、二
コ動なのだろう。正直に言って、自分はこれまで彼らの存在に対して、知り
こそすれど「無関心」だった。この世の中には、もっと知るべきことがある
ような気がしていた。しかし今は、彼らに対して「逃げずにもっと現実を見
ろ!」と強く思う。
おかしさに気づいていながらそれを見ぬふりをして目をそらすことは、それ
を知らずにいることと同じほどに罪深い。もし彼らの中に、ネット右翼とし
ての自分の行動を「おかしい」と感じることが少しでもあったなら、その
居心地よい嘘から抜け出し、真実のある現実へと向き合ってほしいと願う。
たとえそれが一人きりでも。
傘をなくした。
わたしの傘を、雨に濡れるのを嫌がっただれかが、
わたしの代わりにさして家に帰った。
そう思って嫌な気分になったまま、タバコ屋の軒先で
信号を待っていると、目の前の土砂降りの雨のなかを
一台のオープンカーが走り去った。
ドライバーの男はにっこりと笑っていたが、わたしには
泣いているように見えた。
風で濡れた髪が後ろへなびいて、不覚にも美しいと思った。
彼の目線は、はじめからずっと遠くを向いていたけれど、
もしもわたしが走って追いかけ、ひとこと「乗せて」と言えさえ
すれば、彼がそんなわたしの目を見てくれさえすれば、
きっと乗せてくれたにちがいなかった。
もちろん乗せてくれなかったかもしれないけど、少なくとも
そうすれば、そうしないよりはわたしが彼と同じ人間だと
いうことを、彼にもわかってもらえただろう。
わたしが彼に気づいた時点で、わたしたちはもう同じ人間
でしかなく、そのために彼は土砂降りの雨のなかを、
笑いながら、ほんとうは泣いているように見せながら、
まっ黒なオープンカーを走らせたのだとしか
わたしには思えなかった。
もちろんのことだが、この短い間にそろそろ男の
あなたたちがこんなふうに思いはじめているように、
季節はずれの冷たい雨のせいでわたしの頭が
すかっり狂ってしまっていて、わたしが話している
ことなどは、けっしてありえなかっただろうという
空想に、もはやわたしは何の意味も
見い出せないでいた。
わたしに言わせれば、わたしの言っていることも、
あなたたちが思っていることも
空想にすぎないにちがいなかった。
彼のことを知っているぶんだけ、わたしの方が
正しい気さえした。
走り去っていく彼の車を追いかけることもできず、
雨が止むのを待ちながら、ただ立ちつくすしかない
わたしにとって、そんな空想だけが、どんなことよりも
意味深いものだったから。
どうせ濡れるなら、彼の車に乗って、彼の隣で
濡れてしまいたかった。
わたしは、おかしいだろうか?
何かまちがっているのだろうか?
これを読んでいるあなたがもしも女だったら、
わかってくれるだろうか?
彼に何があったのか、そして車に乗り込み、
家を出て、一度は雨の中へ飛び出すまでの
わずかな間、すこしでも出発をためらったのか、
わたしにはわからない。
そんなことは彼自身にさえ、もうわからないだろう。
けれどもひとつだけ確かなことは、わたしが
彼の姿を見て、できることならわたしは彼の顔を
打つ雨になりたいと思ったことだ。
自分だけの速度を見つけた彼を
空中で待ち受けながら、彼の髪に染み込むわたし。
そうすれば、彼のことを考えながら雨のなかを
濡れながら、歩き出したわたしがこんなふうに
感じているように、こんな冷たい雨にも、
きっとかすかな温もりが隠されていることを、
彼にもわかってもらえたような気がしたから。
わたしの傘を、雨に濡れるのを嫌がっただれかが、
わたしの代わりにさして家に帰った。
そう思って嫌な気分になったまま、タバコ屋の軒先で
信号を待っていると、目の前の土砂降りの雨のなかを
一台のオープンカーが走り去った。
ドライバーの男はにっこりと笑っていたが、わたしには
泣いているように見えた。
風で濡れた髪が後ろへなびいて、不覚にも美しいと思った。
彼の目線は、はじめからずっと遠くを向いていたけれど、
もしもわたしが走って追いかけ、ひとこと「乗せて」と言えさえ
すれば、彼がそんなわたしの目を見てくれさえすれば、
きっと乗せてくれたにちがいなかった。
もちろん乗せてくれなかったかもしれないけど、少なくとも
そうすれば、そうしないよりはわたしが彼と同じ人間だと
いうことを、彼にもわかってもらえただろう。
わたしが彼に気づいた時点で、わたしたちはもう同じ人間
でしかなく、そのために彼は土砂降りの雨のなかを、
笑いながら、ほんとうは泣いているように見せながら、
まっ黒なオープンカーを走らせたのだとしか
わたしには思えなかった。
もちろんのことだが、この短い間にそろそろ男の
あなたたちがこんなふうに思いはじめているように、
季節はずれの冷たい雨のせいでわたしの頭が
すかっり狂ってしまっていて、わたしが話している
ことなどは、けっしてありえなかっただろうという
空想に、もはやわたしは何の意味も
見い出せないでいた。
わたしに言わせれば、わたしの言っていることも、
あなたたちが思っていることも
空想にすぎないにちがいなかった。
彼のことを知っているぶんだけ、わたしの方が
正しい気さえした。
走り去っていく彼の車を追いかけることもできず、
雨が止むのを待ちながら、ただ立ちつくすしかない
わたしにとって、そんな空想だけが、どんなことよりも
意味深いものだったから。
どうせ濡れるなら、彼の車に乗って、彼の隣で
濡れてしまいたかった。
わたしは、おかしいだろうか?
何かまちがっているのだろうか?
これを読んでいるあなたがもしも女だったら、
わかってくれるだろうか?
彼に何があったのか、そして車に乗り込み、
家を出て、一度は雨の中へ飛び出すまでの
わずかな間、すこしでも出発をためらったのか、
わたしにはわからない。
そんなことは彼自身にさえ、もうわからないだろう。
けれどもひとつだけ確かなことは、わたしが
彼の姿を見て、できることならわたしは彼の顔を
打つ雨になりたいと思ったことだ。
自分だけの速度を見つけた彼を
空中で待ち受けながら、彼の髪に染み込むわたし。
そうすれば、彼のことを考えながら雨のなかを
濡れながら、歩き出したわたしがこんなふうに
感じているように、こんな冷たい雨にも、
きっとかすかな温もりが隠されていることを、
彼にもわかってもらえたような気がしたから。
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誕生日:
1982/11/01
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